闘いはまだまだこれからだ

闘いはまだまだこれからだ

去る9月13日、東京地方裁判所で行われた「東京・高校無償化裁判」判決言い渡しを傍聴した藤永壯先生の感想です。

朝鮮学校「高校無償化」をめぐる東京の裁判は、原告敗訴の不当判決が言い渡された。事前に聞いていた裁判の状況から、勝訴の確率は高いと期待していただけに、いまだにショックが尾を引いている。国相手の訴訟の困難さを改めて痛感せざるを得ない。

東京判決の結論を簡単に言えば、「北朝鮮や朝鮮総聯」の「不当な支配」を受けている“疑いがある”朝鮮学校に就学支援金を支給すれば、支援金が「北朝鮮や朝鮮総聯」に流用される“疑いがある”ので朝鮮高級学校を不指定にした、という国の主張をそのまま追認したものだった。この点で、先に言い渡された広島の不当判決と軌を一にしている。

 しかし、こうした国の主張はウソである。第2次安倍政権は発足直後、まず朝鮮学校を無償化制度から排除するため、朝鮮高級学校の指定を念頭に置いた根拠規定を削除する文科省令改悪を行った。その理由が拉致問題などの政治的外交的判断によることは、当時の下村文科相の発言などから火を見るよりも明らかである。「不当な支配」云々は、規定削除の措置が教育の機会均等をうたった無償化制度の目的に反することを、政府自身がよく知っていたために後付けした理屈に過ぎない。

だが審理の過程で、国側は規定削除の集中争点化を避けるために「不当な支配」の存在を強調し、これを裏付けようと、産経新聞の報道など朝鮮総聯や朝鮮学校を敵視する悪意に満ちた情報を証拠として提出していった。とくに公安調査庁の報告書を提示したことにより、朝鮮学校への差別政策を実際に支えたのは、国家の治安管理の思想であることが明確になったと言える。本来、教育行政のあり方をめぐる争いであったはずのこの裁判を、在日朝鮮人に対する治安対策上の論点へと引きずり込もうとしたのが国側の戦略であった。つまるところ日本の公安機関に根強く巣くう「不逞鮮人」観にもとづく差別意識が、朝鮮学校への無償化適用に立ちはだかったのだ。

もちろん、かりに「不当な支配」について云々したとしても、朝鮮学校が就学支援金を不正受給する“疑いがある”というだけで、不指定が正当化されることなどあってはならない。しかし結局、広島・東京両地裁は国側の思惑に乗った判決を下したのである。

東京の原告弁護団は、朝鮮学校が無償化制度から排除された過程を綿密に分析し、また証人尋問では文科省の当時の担当者を徹底的に追い込んで、朝鮮学校の根拠規定を削除し不指定とした真の理由が、政治的外交的判断によることを論証した。不指定が違法であることの動かぬ証拠を突きつけたのだ。

ところが「不当な支配」論に与した東京地裁は、治安政策的な観点から文科大臣の判断を適法と認め、政治的外交的判断による根拠規定削除については「判断する必要がない」と突き放した。原告弁護団のメインの主張についてはスルーし、全く応答しようとしない不誠実で無礼きわまる判決だった。任期が十分に残っていたはずの前裁判官が、結審直前に交代させられるという異例の措置に対して、疑いの目が向けられるのも当然である。

このような司法の権威や信頼性を自ら損なうような杜撰な判決が通用すると、裁判官はタカをくくっているのだろうか。だとしたら、これは随分と人をなめた話である。在日朝鮮人をなめているだけでなく、日本人も含めた日本社会の構成員全体をなめた思考と言わざるを得ない。こんな不当判決を許してしまえば、国家は自らが恣意的に「反日」のレッテルを貼った個人、集団に対し、安心して差別政策を取ることだろう。裁判に訴えられたとしても、司法が正当化してくれるのだから。

救われたのは、東京の報告集会で参加者がみな前向きに切り替え、逆転勝訴に向かってファイトを燃やしていたことである。判決内容が杜撰なぶんだけ突っ込みどころは満載とも言える。不当判決を下した裁判官は、歴史の1ページに恥ずべき判例を残したと悔いることになるだろう。闘いはまだまだこれからだ。